髪が長い。 先生が「もう二センチ切ってこい」と言う。 生徒は「絶対に嫌だ」と言う。
または、こんな場面。 先生「…分かったな。よし、分かったら、あの先生に謝ってこい」 生徒「それだけは、絶対に嫌です。そんなことするぐらいなら、学校をやめます」と言う。
ズボン、カバン、上靴…等。 こんな小さなことならやれるだろう。 そんなにムキになる程のことはないだろう。
と我々は思うが…さにあらず。
「髪を黒く染めるなら、退学する」と言う。 この頑張り、必死の抵抗を見ていると「何か」が見えてくる。
そう、これがこの子供にとっては防波堤であり、『生命』なのだと。 「回りから否定され続け、壊れそうになっていく自分」をやっとこれで支えているのだ。
どの子も回りと調和して、うまくやっていきたいと思っている。 しかし、それは「自分」が安全、無事でいられる場合だけ。
いつも回りから自分を否定され続け、認めてもらえず、かといって自分を変えて、回りの要求に合わせてやっていくこともできない。
そこには「自分」が何なのかはっいりしなくなり、訳がわからなくなっている子供がある。
思春期は「自我」を作り上げる作業をする、最も大切な時です。 否定されそうな自分。 壊れてしまいそうな自分。 訳が分からなくなった自分をやっと支えてくれるのが、この赤い髪であり、酒、たばこ、反抗で、この仲間たちなのです。
髪を二センチ切られても大丈夫な生徒もいます。 しかし、二センチが『生命』の生徒もいるのです。 「自我」を作り上げる最中で「これを取り上げられると自分でなくなる」と感じるようです。残念です。
こんな小さなことくらい(と大人は考えること)で壊れてしまう自分ではなくて、きまりをキチンと守っても「壊れることのない自分」であって欲しいと思うし、それを願って子供を育てている。
しかし、一人一人「自分を作っていく作業」は異なるのです。
何げなしに言った一言で、物凄く怒り、反抗することがある。きっとその子供の何か「大切なこと」に触れ、傷つけ、怒らせたのでしょう。
「そんなことで、怒るお前は変だ」 と言うことはできますが、「大切なこと」は一人一人異なるのです。
長い、または短いスカートが、もしくは赤い髪が、ギリギリの自分を支えてくれている最後の防波堤ならば、私たちは、どうしたらよいのでしょう。
大丈夫です。 そのうちに赤くなくても、坊主頭でもよくなる時がきます。
そういったことを無理して頑張る必要のない、揺るがない自分を作り上げるのです。 今は、そのための一つのステップを踏んでいるのです。
こうやって「太郎」ができていくのです。 黙って見ててやってくれればよいのです。
もちろん、困る事は困る。 だめな事はダメと注意するのは、当然、良いのです。
ただし、「生命がかかっているのだ」ということを、それだけ苦しみ、闘っているのだということを、知ってください。
そして「少々のことでは壊れない、はっきりとした『自分』を子供が作るために力を貸して欲しいのです。
髪や服装に、必死でこだわらなくてもよい自分。 簡単に壊れることのない自信をつけてやること。
それは、「お前は、お前のままで大好き。愛しているよ」をしっかりと伝えてやることでしょう。 |